外からの来襲に備えた軍事施設の研究─それらの遺構を探る 調査成果 そのⅣ
更新日:8月22日
海外からの脅威 第4波 欧米ロからの圧力に対する防衛 明治編
2.資料提示 鳴門方面砲台群見学記
鳴門方面砲台群は、門崎砲台が1897年3月から、続いて笹山砲台と行者嶽砲台が1897年10月から建設が開始されている。
笹山砲台には二十八糎弾砲6門
門﨑砲台 25口径24センチ要塞砲(カノン)2門
斯加式9糎速射要塞砲(カノン砲)2門
行者嶽 制式26口径カノン砲(26口径24糎加農砲(24センチカノン砲)) 計6門
柿ヶ原堡塁砲台 制式9糎要塞砲(カノン砲)4門、三八式野砲6門、二十八糎弾砲6門
孫崎砲台 口径24センチ榴弾砲9門
これらの内、近年発掘調査によって明らかとなった門崎砲台以外はその全容はあまりわかっていない。

孫崎砲台 通路以外は急峻な崖状態で散策を取りやめ





笹山砲台は道路建設等の影響か周囲にそれらしきものは見つけられなかった。


行者嶽砲台
その施設すべてを終戦後に米軍によって爆破されたと言われている。
行者嶽砲台は定本義広氏によって詳細な報告がなされている。(定本義広 2010「福良地区の砲台・堡塁」『由良要塞Ⅱ』近代築造遺跡研究会
今回砲座を5門追認できた。砲座の番号は今回確認した順につけた仮の番号ある。











門崎砲台
門崎砲台は、24㎝カノン砲2門と9㎝速射カノン砲2門の合計4門で構成されていたと陸軍の記録に残っており、戦後しばらくはドーム状の穹窖砲台が残り、観光地となっていた。
その後、昭和36年完成の高圧線鉄塔建設や昭和45年完成のみさき荘建設(現在は道の駅うずしお)と相次いで開発工事が行われたが、壊されずに埋められていた。
24 ㎝カノン砲砲座の際立った特徴として、ドーム状の天井を備える穹窖砲台であることがあげられる。大正期以降は、艦砲の射程増大に伴う大落下角の砲弾の着弾や航空機からの爆撃対策として穹窖砲台がつくられていくが、明治期の穹窖砲台で国内に現存する例は無い。門崎砲台で穹窖砲台が採用された理由としては、鳴門岬の地形的条件が影響しており、竣工当初は海上からの艦砲着弾に備えた設計であった。その後、航空機による爆撃と艦砲射撃の威力増大に見合った構造とするために、大正~昭和期に改良が加えられた。
24㎝カノン砲砲座は、明治期は露天砲台が一般的で、門崎砲台は明治期の穹窖砲台として実態が明らかとなった唯一の例となる。
竣工時の穹窖砲台の内部構造についてであるが、右砲座右壁は明治32年8月竣工時の状況を残しており、後の改良は行われておらず、士官室と思われる砲側施設への通路と弾室が存在する。右砲座左壁は後に壊されて改良が加えられているが、竣工時はレンガ壁で左砲座への通路入口が存在し、右壁の砲側施設への通路入口と左右対称となる。左砲座右壁には右砲座へ通じる通路入口があり、左砲座左壁には弾室の存在が確認できるが、砲側施設は存在しない。 (山崎裕司2025『門崎砲台跡』南淡路市教育委員会)



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