【幕末の海戦】阿波水軍・森甚五兵衛家現当主インタビュー - 「翔凰丸の伝承は、ありません」から始まった一日
- 幕末の海戦チーム

- 12 分前
- 読了時間: 7分
【今回の取材概要】
- 日時:2026年8月1日(土)
- 場所:ふらんせ 蔵(徳島県徳島市)
- 参加者:森様(森甚五兵衛家 現当主)、向井様(阿南市役所 文化財担当係長)、マツ、バタやん、森、ひらぱー
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こんにちは、ひらぱーです。
さて今回は、私たちの調査にとって、かなり大きな一日になりました。
マツさんがコンタクトを取って下さり、阿波水軍・森甚五兵衛家の現当主に、直接お話を伺うことができたのです。
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●そもそも「森甚五兵衛」って誰?
森甚五兵衛は、個人の名前ではありません。
阿波水軍を率いた森家の当主が、代々受け継いできた名前(襲名)です。
歌舞伎の「◯代目◯◯」に近いイメージですね。
森家のはじまりは因幡国と言われており、京都で阿波の守護・細川氏と縁ができ、その阿波出兵に従って四国へ渡ってきた家系だと伝わります。
戦国期は鳴門の土佐泊を拠点に、細川氏・三好氏のもとで海を押さえ、蜂須賀家が阿波に入ってからはその家臣となり、椿泊(現在の阿南市)へ本拠を移しました。
朝鮮出兵や大坂の陣に参戦。
江戸時代には藩の中老として、参勤交代の海上輸送を一手に担っています。
ざっくり言えば、阿波の海を400年にわたって預かってきた家です。
そして今回お話を伺ったのは、その家の「現当主」。
ご先祖の話を、資料としてではなく「うちの話」として語れる、たった一人の方です。
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●いきなりの空振り。でも、そこが一番おもしろかった
私たちが追っているのは、翔凰丸という薩摩藩籍の船です。
森家は阿波水軍筆頭、拠点の椿泊はその現場のすぐ隣。
何か伝わっていないはずがない──と、少し期待して伺いました。
結果は、「翔凰(丸)に関しては、ありません」。
明言でした。
幕末の話自体はいろいろ伝わっているのに、この件だけすっぽり無い。
ところが。
この「無い」の理由についての当主の見立てが、今回いちばん背筋の伸びた瞬間でした。
阿波沖海戦の当時、鳥羽・伏見の決着はすでについていた。
けれど、それを誰も知らない。
榎本武揚ですら、大阪に戻って初めて幕府側の負けを知ったくらいです。そして椿泊も阿波も、まだ幕府の支配下にある。
下手に動けばどうなるか分からない。
薩英戦争という、生々しい前例がありました。
その板挟みの中で、現当主はこう言われました。
> 「多分ね、みんなが黙ったんだと思う」
伝承が無いこと自体が、当時の空気の証言になっている。
史料が「無い」ことにも意味がある、というのは頭では分かっていたつもりでしたが、当事者の家の口から聞くと、まったく重みが違いました。
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●今回最大の収穫は、森家自身の幕末だった
翔凰丸は空振り。
けれどその代わり、想像していなかった話が出てきました。
森家のご先祖が、宮古湾海戦に出ている。
明治2年、戊辰戦争のさなかに起きた、あの宮古湾海戦です。
戊辰丸という船に、当主の曽祖父が士官として乗り組んでいました。
戦闘中、銃弾が機関に命中して航行不能。
負傷兵を送り届けるため、横浜へ引き返します。
ここまでは、まあ判断としては分かる話です。
ところが、阿波藩は帰還命令を出していなかった。
「勝手な戦線離脱」とみなされ、船長以下の士官に切腹が命じられます。
実際に腹を切った方もおられたそうです。
この船長という人が、また尋常ではありません。
井出三洋というもとは医者。
オランダ語と英語ができたので、蒸気船の船長に起用されていた。
当時の蒸気船は外国人を雇って動かすのが当たり前で、語学ができる人材そのものが貴重だったわけです。
また「医者に腹を切らせるわけにはいかない」ということで、切腹は免れ、追放処分となりました。
そして曽祖父は、士官の中で最下位、17歳前後という若さだったため、処分を免れ、その後は船将に任じられたそうです。
その後この船は修理され、戊辰戦争終了時には**函館で降伏した旧幕府軍兵士らを東京へ護送する任務**についています。
後年曽祖父であるご本人が書かれた履歴書形式の記録から読めるのだそうです。
さらに。
曽祖父にはその後、イギリス留学の命令が下る。
命令書には「軍術を習う」とある。
しかし東郷平八郎と同じく、イギリスは海軍兵学校に入れてくれなかった。
そこで方向転換し、鉱山学を学んで帰ってきた。
この留学の話を、当主はお父様から伝聞で聞いておられたとか。
幕末が、口伝えであと一人ぶんの距離まで来ている。
そういう感覚がありました。
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●家に残っているもの
森家に伝わる資料や口伝の話も、ひたすら濃厚でした。
- 江戸中期に編まれた家史
夢のお告げを受けて編纂を志したご先祖がおられたそうです。しかもこの家史、自分の推測部分と、「こういう文献があった」という引用部分を、文体で書き分けている。今では失われた文書が、当時は存在したことがこれで分かる。史料批判の観点から、かなり価値が高いものです。
- 「阿波の海ならどこで魚を獲ってもよい」という趣旨の漁業権の一札
表装して所蔵されています。
- 軍船の設計資料
釘の種類と本数まで書かれた資材明細です。軍船は漕ぎ手66丁(片側33丁)で、商船とは構造がまるで違う。「現代の材料での再現なら、そこらは私わかります」という一言に、思わず全員が身を乗り出しました。
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●400年、まだ切れていない関係
椿泊の漁師さんは、ほぼ全員が森家旧家臣団の子孫。
今でも当主のところへ挨拶に来られるそうです。
県漁連(徳島県漁業協同組合連合会)の現会長や由岐・椿泊漁港の漁港長も椿泊の出身だとか。
歴史って、資料館の中だけにあるものではないんですね。
今も人の側に、関係として残っている。
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●そして、調査は前に進みます
今回のインタビューから、具体的な宿題もいくつも生まれました。
- 米田甚八(由岐の庄屋で、交渉の窓口となった人物。功績碑が現存)の子孫探し。当主が古文書仲間と、庄屋文書を当たってくださることに。「どっかで読んだ記憶がある」との一言、森様も調べて下さるそう。
- 徳島県立文書館。くずし字のスペシャリストがおられる一方、集められた庄屋文書が人手不足で未整理のまま積み上がっているとのこと。由岐周辺の見聞記録が眠っている可能性があります。
- 薩摩藩側の資料や人物調査。由岐は阿波沖海戦のあくまで場所でしかなく、船や乗組員の情報は鹿児島にあるのでは、とのアドバイス。船長代理の伊地知八郎に子がいることも分かっているので、子孫を追えるかもしれない。
![伊地知八郎の子に関する記述[薩藩海軍史]](https://static.wixstatic.com/media/68767f_4d028a7f93be486e8ef6561242218ddc~mv2.png/v1/fill/w_980,h_654,al_c,q_90,usm_0.66_1.00_0.01,enc_avif,quality_auto/68767f_4d028a7f93be486e8ef6561242218ddc~mv2.png)
- 翔凰丸の解体に関わったとされる文書の追跡。
そして11月、チーム全員で美波町へ。
船を出して調査します。
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最後に、森家に伝わるという言葉をひとつ。
> 「海の上を歩く沓(くつ)がある」
戦国のころから伝わる言い伝えだそうです。
陸の理屈では歩けない場所を、それでも歩く方法がある。
海を生業にしてきた家の言葉だと思うと、これがなかなか沁みます。
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●最後に、ひとつご報告
森甚五兵衛という名前を、この記事で初めて知られた方も多いと思います。
実は今回の取材に先立つ6月22日、『ジンゴベエ ~阿波水軍を率いた侍~ 森甚五兵衛記』に関わられた丸山様に、お話を伺う機会をいただいておりました。
阿南市の「ふるさとゆかりの偉人マンガ」として制作された、まさに森甚五兵衛を主人公にした作品です。
『ジンゴベエ』は声優さんの声がついた動画版が公開されています。
漫画と合わせてご視聴頂けると幸いです。
▶ ジンゴベエ
●編集後記
歴史のある家は濃厚さが違います。
唸る話ばかりでした。
残念ながらココに記載できない話もあり、歴史好きとしては震えました。
お時間を作って下さった森様、協力してくださった阿南市役所の向井様にはこの場を借りて御礼申し上げます。
私たちの調査も、まだ海の上です。
引き続きお付き合いください。





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