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【幕末の海戦・外伝】子孫が紡ぐ宮古湾海戦の記憶part2

13 時間前
読了時間: 6分

更新日:11 時間前

【今回の取材概要】

日時:2026年10月3日(土)

場所:拓心館@岩手県下閉伊郡田野畑村

お話を伺った方:軍艦「高雄」砲術師・竹市徳之助のご子孫(机地区在住)



こんにちは、ひらぱーです。


さて今回は「外伝」です。舞台はいつもの徳島ではなく、ぐっと北へ上がって岩手県の田野畑村。


阿波沖海戦を追いかけている私たちが、なぜ三陸の海を見に行ったのか。理由はシンプルで、ここにも「幕末の海戦」と「市民が動かす調査プロジェクト」があるからです。


田野畑村は、宮古港海戦で旧幕府軍の軍艦「高雄」が最期を迎えたとされる場所。そして阿波沖海戦と同じく、海洋文化遺産プロジェクトの一環として市民参加型の調査が進んでいます。


私たちは神戸大学の所属ですが、今回は東京大学の皆さまにお招きいただき、田野畑村と徳島県美波町・由岐の交流というかたちで訪問が実現しました。2日間の全体レポートは別のメンバーが書いてくれますので、そちらに譲ります。

私からは一点だけ、どうしても書き残しておきたい出会いがありました。


高雄に乗っていた人物の、ご子孫にお話を伺うことができたのです。


●そもそも「宮古湾海戦」と「高雄」って?


宮古湾海戦は、明治2年(1869年)3月に起きた、戊辰戦争終盤の海戦です。阿波沖海戦が「幕末の海戦・第一幕」だとすれば、こちらはその続編にあたります。

箱館に拠った旧幕府軍は、新政府軍の最新鋭艦「甲鉄」(幕臣である小栗忠順が購入。2027年の大河『逆賊の幕臣』の主人公)を奪い取るという大胆な作戦を立てました。敵の船に横付けして乗り移り、船ごといただく。映画のような話ですが、本気です。


出撃したのは回天・蟠竜・高雄(幕府に拿捕されてからは第二回天と呼ばれていましたが高雄でいきます文句いうな)の3隻。ところが途中の暴風雨で艦隊はばらばらになり、高雄は機関の不調も重なって作戦に間に合いませんでした。結局、回天が単独で宮古湾に突入することになります。


取り残された高雄は新政府軍の艦に追われ、田野畑村の海岸に乗り上げます。乗組員は自ら船に火を放って上陸し、のちに降伏したと伝わります。

ここで、阿波沖を追いかけてきた身としては二度見してしまう点があります。


追う側にいたのは、阿波沖海戦で開陽と撃ち合ったあの「春日」(東郷平八郎も乗船)

追われた船は浜に乗り上げ、乗組員みずからの手で焼かれた。


由岐の浜で最期を迎えた翔凰丸と、立場こそ逆ですが、筋書きがそっくりなのです。

徳島と岩手、遠く離れた二つの浜が、一本の線でつながって見えた瞬間でした。


●砲術師・竹市徳之助という人


今回お話を伺ったのは、高雄に砲術師として乗り組んでいた竹市徳之助のご子孫です。現在も田野畑村の机地区にお住まいです。

砲術師とは、艦の大砲を扱う専門職。いまで言えば技術系のスペシャリストで、誰でも務まる役目ではありません。

徳之助は、現在の宮城県松島の出身と伝わります。その彼が、船を失い、縁もゆかりもなかった三陸の浜に上がることになりました。

インタビューの詳細はここでは割愛しますが、いちばん心に残ったのはこの一点です。


徳之助は、自分の出自を決して表に出さなかった。



●「高雄の残党はいないか」


当時、新政府側からは「高雄の残党がいないか」というお触れが出ていたそうです。


あえてこの言葉を使いますが、徳之助は「賊軍」の人間でした。見つかればどうなるかわからない。そういう空気のなかで、彼は生きていかなければなりませんでした。

そこで徳之助が選んだのが、結婚した相手の姓を名乗ることです。名前を変え、土地の人間として暮らす。そうやって新政府の目を逃れたと伝わっています。

家族には話していたそうです。けれども、公にすることはなかった。その沈黙は、かなり長いあいだ守られていたといいます。

この話を聞きながら、徳島で森甚五兵衛家にお話を伺った日のことを思い出していました。語らないこと、表に出さないこと。それもまた、家を守るためのひとつの選択だったのだと思います。

記録に残らない歴史は、「なかった」のではなく「言えなかった」のかもしれません。


●二つ並んだお墓


お墓にも案内していただきました。

そこには、お墓が二つ並んでいました。ひとつは「竹市徳之助」としてのお墓。もうひとつは、奥さまのお墓です。

生きているあいだは妻の姓を名乗り、本当の名前を伏せ続けた人が、墓石には元の名前で刻まれている。

隠し通した名前を、最後の最後に取り戻した。そう読むこともできますし、家族が「この人は竹市徳之助だった」と残したかった、と読むこともできます。どちらにしても、並んだ二つの墓石の前では、しばらく言葉が出ませんでした。


●帰れなかった松島


徳之助は、いずれは故郷の松島に戻りたいと思っていたそうです。

けれども、その日は来ませんでした。終の棲家は、船を失ったこの田野畑になりました。

地図で見れば、松島と田野畑は同じ三陸の海でつながっています。帰ろうと思えば帰れそうな距離に、帰れない故郷がある。それがどんな気持ちだったのかは、想像するしかありません。

ただ、その「帰れなかった人」の血が田野畑に根を張り、150年以上たったいま、ご子孫が私たちに話を聞かせてくださっている。歴史は教科書の中ではなく、人の家の中に残っているのだと、あらためて感じました。


●掘り起こしたから、出てきた


今回いちばん考えさせられたのは、このご子孫の存在がどうやって知られるようになったか、という経緯です。

高雄は、これまであまり注目されてこなかった船でした。宮古湾海戦といえば主役は回天で、高雄は「間に合わなかった船」として脇に置かれがちです。

その高雄を、田野畑の皆さんがあらためて掘り起こした。すると、それをきっかけに「実はうちの先祖が」という声が浮かび上がってきたのだそうです。

順番が大事だと思いました。子孫がいたから調査が始まったのではありません。地元の人が熱を持って動いたから、眠っていた記憶のほうが出てきたのです。


●阿波沖海戦に持ち帰るもの


これは、そのまま阿波沖海戦にも当てはまるはずです。

以前、由岐で生まれ育った方から「子どものころ、阿波沖海戦なんて聞いたこともなかった」と伺ったことがあります。知られていないということは、裏を返せば、まだ誰にも聞かれていない話が残っているかもしれない、ということです。

由岐や日和佐で、もっと地元が盛り上がる仕掛けをつくること。「うちにもこんな話が」と言い出しやすい空気をつくること。田野畑で見せていただいたのは、そのお手本でした。

沈んだ船を探すことと、語られなかった記憶を探すこと。どちらも、誰かが「知りたい」と声を上げるところから始まるのだと思います。


●おわりに


末筆ではございますが、今回お話を聞かせてくださったご子孫の皆さま、あたたかく迎えてくださった田野畑村の皆さま、そしてお招きくださった東京大学の皆さまに、心より御礼申し上げます。

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