【愛媛チーム】瀬戸内海航路の重要な拠点、忽那諸島最大の島「中島」現地調査
- 愛媛海洋文化遺産プロジェクト
- 5月7日
- 読了時間: 4分
こんにちは。愛媛チームのkokoです。
縁あって、島の歴史に詳しい方にお話を伺えることになり、バタやんさんと中島に行ってきました。
中島は、松山からフェリーで約1時間、忽那諸島最大の島です。
場所はココ↓

※忽那諸島は、西瀬戸内の伊予灘と安芸灘との間にあり、瀬戸内海航路の重要な拠点になっていました。その歴史は古く、縄文時代早期の約8000年前にはじまります。弥生時代には集落が営まれ、古墳時代には古墳が築かれました。奈良時代には法隆寺の庄倉が置かれ、平安時代末ごろには忽那氏が領主となり、鎌倉・室町・戦国時代には島々に砦・城塞が築かれました。江戸時代になると忽那諸島は松山藩領と大洲藩領とに分かれて統治され、それ以降は海運業で栄えました。【出典 忽那諸島の歴史を訪ねて 松山市教育委員会】
様々なことを教えていただいたのですが、海にまつわる歴史①~⑥をご紹介します。

① まず、訪れたのが八王子。
神浦港からすぐの場所にある船のカタチをした地名です。

上空からよく見ると、船のカタチになっています。
その昔、この地に流れ着いた船の中に、高貴な位の人々が8人見つかったそうです。島民がその方々のお墓を作り、代々供養を続けているとのこと。墓石から室町時代のものとみられるとのこと。今は周囲をみかん畑に囲まれていますが、当時はこの辺りが海岸線だったのでしょうか。
八王子と同じ神浦地区にあるある常夜燈。
文久3年(1863)、江戸時代末期に建てられたものです。海からも見えるこの位置に建っていますので、海上からも確認できたことでしょう。

さらに、同じ神浦の海岸に、粟井地蔵があります。
粟井地蔵の南1km沖にフグリ岩灯台があり、お地蔵様はそちらを見つめるように建っています。ここには岩礁があり、船の遭難や潜水夫の遭難事故が相次いだため、その人たちを供養するのに作られたそう。ここで素潜りをしていた方が江戸時代の唐津焼の陶器を引き上げたとのことで、海中に沈んでいる何かがあるのは間違いありません。【出典 広報なかじま】
② 能磯城跡
ここは、城というより、岩がそのまま海賊の砦となった場所。干潮時には直接渡ることができます。今は頂上まで行けるか不明ですが、頂上付近には、お備えの跡を確認した方がいるとのことで、人の出入りがあったようです。何となく、登れそうな気がする・・・。そして、何か見つけたい。

③ 鴨脊島
戦時中、紫電改がこの島を的に見立てて、機銃の練習をしていたそう。島には弾が落ちているかもしれません。

④ 丸子鼻
今から20年ほど前、怒和島の丸子鼻近くの海底に大碇が発見されているとのこと。干潮時には海岸から見ることができ、江戸時代のものではないかと推測されています。また、ここには、江戸時代に西国の大名が参勤交代のため江戸へ登る途中、丸子鼻の沖で暴風にあい遭難した際、丸子姫というきれいなお姫様が乗っており、船と共に丸子鼻の沖合で死亡したという伝説が残っています。発見されたこの大碇は丸子姫が乗っていた船のものなのか。(写真なし)【出典 忽那諸島界隈はええとこぞなもし】
⑤ 桑名神社
粟井地区にある桑名神社には数々の船の絵馬と粟井地区沖合500mの海底から引き揚げられたという4本爪の大碇が奉納されています。
実際に碇を確認しましたが、小屋の中に納められおり、全体像を写真に撮ることができず、下部のみ。桑名神社の絵馬をよく見ると、江戸時代に確かに、この形の碇が船首にあるのが確認できます。

また粟井地区は室町時代から海運業が盛んで、大坂・泉州・兵庫・備後・安芸・土佐・日向などと繋がりがあり、玉垣からもそれらが確認できます。
⑥ お僧都様
斎灘付近で、享保10(1725)年に海難事故があり、遭難者の一人の高僧の慰霊碑が小浜地区にあります。この中島北東側と対岸の北条の間で海難事故があったこと、ここの海底にもその痕跡があるかもしれません。
忽那諸島、めちゃくちゃ色々あります!
途中、おいしいパンを頂きながら、自衛隊の艦艇に遭遇し、しばしの興奮があったり、ウグイスの囀りを聞きながら、海を眺めたり、のどかで良いところでした。
今月のランディ先生を交えての調査地は今治ですが、ここにも何かある~!と確信した有意義な一日となりました。

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