太田城水攻め調査
和歌山での調査第2回目
作成者 和歌山チーム ファシリテータ Tommy
水攻め堤防の見学をしたが、多くは開発によって現状は失われてしまっている。
道路の新設などにより、その現況地形の変化が起きているため、全体の踏査はあきらめ、
文献調査によって確認することとした。
参照したのは、地籍図の痕跡を元に考察を行った
湯峯愛 2009 「地籍図による太田城水攻め堤防の復元」『和歌山地方史研究 第56号』
に基づきながら、1947年撮影の航空写真も参考にした。
結果としては、ほぼ太田城の濠の形状に沿うような形で、濠からおおよそ等距離で堤防を築いていることが理解できた。ざっくりとみれば、コの字形となっており、水攻めの絵図に近い形状を復元できた。(惣光寺所蔵「総光寺由来并太田城水責図」)
東側はほぼ水攻め堤防はなかった可能性もあるが、南側は神社の南側を通り、その先がどこまで延びていたのかはっきりしないが、参照した文献では神社を過ぎたあたりで南北方向に閉じていた可能性が指摘されている。しかし、絵図では東があまり明確には記載されていない。絵図面なので、精度に問題があるかもしれないが、考慮するよちはあるのではと思う。なので、大きく蛇行する旧大門川の上流に水攻め堤防が閉じるというより、絵図面通り。花山に堤防をぶつける可能性も考えてみたい。
文献調査終了後淡嶋神社参拝
元は友が島北方の神島にあったご神体を移したともいわれている神社である。
加太海岸
今は海水浴場として利用されている。この海岸は明治期の地図と比べても形状はあまり変わらない地域である。
海底に沈んだ遺物が打ち上げられていないか、分布調査を行ってみたが、時期のわからないものしか確認できなかった。
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