【広島チーム】7月オンライン会議議事録
- 広島海洋文化遺産プロジェクト
- 8月14日
- 読了時間: 3分

参加者:木村先生、やまだ56、福島、煎茶
■ 6/23 実地調査報告(相生橋周辺)
● 相生橋~本川橋平和記念公園周辺高潮対策検討委員会資料で戦後の建造と紹介されていた雁木4件を撮影。間近で見ると石積みの上にコンクリートで成形した階段が乗っているだけという構造であることがよく分かった。対岸(平和公園側)の同じく戦後に建造された雁木1件も併せて撮影。
● 本川橋周辺(旧猫屋橋)の構造物(護岸の石材)
5月の広島城学芸員の方に伺ったところでは毛利輝元時代の普請ではないとのことだったが、明治に鉄橋化した際に作り直された橋脚部分の両脇の石材は他の護岸の石材とは形状が明らかに異質。本川橋が最初に造られた天正年間においても、軟弱地盤である三角州に架ける橋ということで河岸と橋の接合部分は他の河岸に先んじてでも石材で固める必要があったと推察される。また、近隣の土木工事会社の方に聞いたところでは、洪水の被害にあったとしても流水速度を考えると石組みが遠くに流出したとは考えにくいとのこと。石組み自体は洪水災害の度に組みなおされたとしても石材自体は天正年間由来のものも残されているからこそ、他の護岸と異質な形状になっているのではないか?
● 川底の遺物本川橋に一番近い下流側の雁木と川岸の2平米程度の区画に散乱している陶片を採取。ほとんどが明治~戦前のものだが一部に幕末と思われるものもあり、広島県立大学の先生に鑑定を依頼中。また、本川橋下付近では表面の一部が被爆の熱線で融解したような瓦片、前述の雁木近くの川底に被爆の熱線で変形したガラス瓶の底を採取。平和記念資料館への鑑定依頼も検討。(写真により発見場所の位置情報を記録)大型のものでは50cm四方程度のコンクリートの建物外壁材なども本川橋付近で発見。レンガ片や瓦片は無数に存在。遺物というより瓦礫という表現がしっくりくる。被爆当時に本川橋周辺に存在したレンガ造りの建物は芸備銀行塚本町支店。本川橋付近に散乱しているレンガ片は同支店のものの可能性が高い。なお、芸備銀行塚本町支店付近での爆風は風速270m/sと推定されている。
● 木村先生からの示唆
レンガ片等の被爆遺物は位置情報が非常に重要。護岸工事の影響を受けていない場所にある遺物は被爆当時の位置のままの可能性が高く、特に価値がある。陶片については近年のものが多く歴史的な価値は高いとはいえないかもしれないが調べてみるという姿勢は大切。位置情報という観点ではGISを活用する取り組みは広島チーム独自。データ収集する人、収集したデータをGISに落とし込む人といった役割分担や、GoogleEarthやQGISといったツールによって特性があるので何をどう使うのか、など対面ミーティングで決めていくのがよい。GIS化して情報発信すること自体が広島チームとしてのプロジェクトの成果となる。
● 7/13の調査状況水中の動画撮影では大きな成果は得られなかった。被爆および台風で崩落した新大橋欄干、明治時代の新大橋や本川橋の橋脚跡の可能性のある木材、本川橋周辺の護岸基礎らしき杭の跡などを撮影。
⚫︎その他8/1までに発表タイトル(仮)を決定するため、オンラインミーティング後にそれぞれ案を出して、決定。8月上旬に対面ミーティングを実施できるよう、後日、日程を調整。
今年の8月6日で、原爆が投下された日から80年を迎えます。小中学生の頃はおりづる集会があり、慰霊のための千羽鶴を作成していました。戦争経験を生で聞ける最後の世代として、原爆を伝えていくこと、平和について考えることを身近なところから発信していく必要があると感じています。描かれた歴史となることなく、生きた歴史として。
